【椿―tsubaki―4】




「春哉さん?さぁ……今日はまだ見てないよ」
 顔なじみの八百屋の親父、魚屋の兄ちゃんにも当たってみた。それでも見つからない。春哉は人生の半分を花街で過ごしていたため、このあたりの地理には未だに疎い。どこかで道に迷い、途方に暮れているのではなかろうか。
「春哉さんを怒らせたのかい?今時、娘でもあんな器量良しなんてなかなかいないんだから大事にしなよ」
「わかってらぃ!」
 行く先々でこれだ。春哉の奴、いつの間に町の人間とこんなに仲良くなってたんだ。

 次に入ったのは両替商。番頭に聞いてみたが答えは一緒。その時、店の女将が奥から出てきた。手に何か持っている。
「これ、和泉屋の旦那が春哉さんにって。預かってたんだけどついつい忘れちまっててねぇ。春哉さんに渡しておくれよ」
 袱紗(ふくさ)に包まれたかんざしを渡された。蝶と花が組み合わさった複雑で豪華な飾りはつける者を選ぶ。これほどのかんざしは高級な女郎屋にでも行かない限り、お目にかかれないだろう。
「和泉屋って……」
(あの親父、まだ懲りてなかったのか)
 俺と春哉の仲が親密となるきっかけになったあの事件。当時、春哉にしつこく言い寄っていた大店の主人というのが、この和泉屋のタヌキ親父ってわけだ。
「ありがとよ、女将。きっちり渡しとく」
 換金して、新しいかんざし買って、俺からの贈り物としてなッ!


 白粉。
 昨日数馬の理性を壊したシロモノ。彼の身体に染み付いていたその匂いは、女のように化粧(けわい)を施し、媚を売った日々を思い出させるから嫌いだった。
でも、数馬が求めるのなら話は別。花街の近くにある、かつて顔なじみだった店に入る。
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい……あら、春哉さん!久しぶり!!」
 出迎えた懐かしい女将の声、店の雰囲気、すべてが当時のままだった。
「あの店を辞めたって聞いてからかなり経つけど、ここに来るってことはまた新しい店に?」
「いえ、せっかく普通の生活に馴染んできたというのに今更戻るつもりはありませんよ。あ、今日は白粉をいただけますか?」
「はいはい、白粉ですね。……それにしてもよかった。春哉さん、ずいぶんと雰囲気が柔らかくなったみたい。きっと心に決めたお方でもいらっしゃるのね」
「そんな……」

 店を出て、手渡された白粉を懐に忍ばせた。
 この店は花街の近くにあるため、遠目に連なる女郎屋の建物が見える。春哉はそれを一瞥した後、それとは反対の市街へ向かおうとした。
 その時だった。

「おや、春哉さんじゃないか」
 聞き覚えのある濁声(だみごえ)が背後から聞こえた。この声には悪い思い出しかない。視線だけで振り返ると、そこにいたのは想像通りの人物だった。
「和泉屋さん……」
 表面こそ善人を装っているものの、その瞳はまさに狂気に満ちている。白髪交じりででっぷりとした、いかにも金持ちの隠居といった風情を、その瞳が全て裏切っていた。
「いや、驚いた。花街から帰るところであなたがこの店から出てくるのを偶然見かけましてなぁ」
 先ほど春哉が花街を一瞥した時、この男の姿はなかった。おそらくずっと後をつけられていたのだろう。
 春哉は身をかたくした。顔だけをその男に向けたまま、鋭い視線で睨みつける。
「何用ですか?あの一件以来、二度と私の目の前に現れぬことを約定したではありませぬか」
「そうでしたな。しかしあなたのその美しい立ち姿を見せられては、話しかけずにいられなかったのですよ」
 下卑た笑みを浮かべながら、春哉の全身を舐めるような目つきで見ている。そのことがひどく気持ち悪く、全身の鳥肌が総毛立った。
「私はもうあなたとは話したくありません。失礼」
 一刻も早くこの場を立ち去りたかった春哉が踵を返したとき、その細腕を恐ろしく強い力で引っ張られた。驚いた春哉が振り払おうとするがびくともしない。
「何をッ!」
「このままうちへ来てもらおう。久しぶりに春哉さんにお相手していただこうと思いましてな」
「嫌だ!私はもう陰間では……」
 そこで鈍い痛みを感じた。みぞおちに一発。
 気を失う直前に春哉が見たものは現実の和泉屋の下卑た笑みではなく、記憶の中の数馬の微笑だった。
(数馬……さん)



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